北方水滸伝に言う死域とは。限界のずっと先にある苦しくないゾーン
北方水滸伝には、よく死域という言葉が出てきます。林沖、史進、楊令などとてつもない強さを誇る豪傑達は、この死域を自らの力でコントロールすることができます。それによって、常人離れした武力・体力・気力で、敵に立ち向かうことができるのです。
マンガ「黒子のバスケ」では、同じような事をゾーンと呼びますね。まあ、それと比べても、北方水滸伝に出てくる死域は、とんでもないレベル。自ら、死域に踏み込み、抜け出すことができなければ、体力の限界以上まで力を出し尽くして死んでしまうというレベルですからね。
北方水滸伝の死域とは:体の限界を超えた先
水滸伝の中でも屈指の使い手、王進は、自身のすべてを伝えようと弟子の史進を鍛えます。天賦の才を持つ男と見込んだからこそ、死域を自身の体と心で覚え込ませるとんでもない修行を敢行。まさに、死んだ方がましという稽古。
死ぬに違いないと思った。大抵気を失う寸前で、次の瞬間には水を浴びせられ、立てと声をかけられた。何度も続けていると、自分がなにを考えているのか、生きているのか死んでいるのかさえ、わからなくなった。どこかで、それを抜けた。もう絶対にダメだと思う。水滸伝1巻
このもうダメだという限界を超えて、さらに先にあるのが死域。スポーツなどではゾーンとも言いますね。
どれほど激しく動いても、苦しくない。思ったとおりに体が動く。王進はそれを、死域と言った。すでに死んでいるから、苦しいものは何もない。「人間の体に、限界はあるのだ。しかしそれは、本来限界とされているところより、ずっと先だ」
この死域を会得した史進は、十数騎で襲ってきた盗賊をたった一人で打倒します。
史進:盗賊たちが人形のようにしか見えませんでした。
王進:それが、私が会ったころのお前だ。私には、あの頃のお前が、人形のようにしか見えなかった
苦しい修行をこなし、死域すらマスターした男にとって、盗賊などモノの数ではなかったのです。この、人形のようにしか見えないという感覚。相手の動きが、人形のようにゆっくりであれば、勝つのは容易いはず。
ボールが止まってみえた川上哲治選手
スポーツでも同じような言葉を吐いた人がいます。野球の川上哲治選手や榎本喜八選手。
川上選手は、ボールが止まって見えるという有名なセリフについて、以下のように語っています。
すべての雑念を振り払うように、ただひたすらにボールを引っぱたいた。時間が経つのも忘れるくらい集中していたら、ボールがミートポイントで止まったように見えた。その瞬間に『これだ』という心境になり、それからはすべてのボールが同じ空間で止まる、それを打つ、『これだ』と感じることの繰り返し。川上哲治
王貞治選手の真剣での打撃練習もそうですし、「すべての雑念をなくす・体力の限界・とことん集中」。このあたりが、死域やゾーンに入るためのコツと言えるでしょう。
極真空手の百人組み手も死域に入る
北方謙三先生によると極真空手の百人組み手もほとんど死域。水滸伝だけでなく史記でも、死域についての修行が出てくるように、北方先生は、死域の話が大好き。それは、実体験に裏打ちされたものでした。
もちろん、北方先生だけではありません。北斗の拳で、ケンシロウが、その力をすべて出し切る描写は、明らかに死域・ゾーンですから。服を破り、闘気が溢れ出すのは、暗殺拳の真髄。この死域を操ることで、ケンシロウは、並み居る強敵(とも)達との戦いを勝ち抜いたのです。
北方先生 「百人組み手は尋常じゃないよね、人間業じゃない。百人と闘うんだから。ほとんど死域に入るって言うね。」
インタビュアー 「なんか突き抜けていくんでしょうね。」
北方先生 「突き抜けていって、死すれすれまで練習する人たちだからね。
北方謙三インタビュー
そう、北方水滸伝は、とんでもない男達がとんでもない活躍をします。中でも、史進のような超人ではない人たち。例えば、朱同が死域に入っての活躍は、手に汗。眼には涙を浮かべずにはいられません。
北方謙三氏の傑作小説水滸伝。もし、無人島に何か持っていくとしたら、私は、この水滸伝全集を持っていきます!