勝つことだけ・成功することだけがすべて?「おおきなお世話だ」の意味
隆慶一郎氏の小説「影武者徳川家康」のセリフ「おおきなお世話だ」は、子供・部下を育てる上で、とても大切な言葉。
この小説には、生きる上で大切な言葉がたくさんあるのですが、今回は、この大きなお世話についてです。
影武者徳川家康の「おおきなお世話だ」
徳川家康の懐刀として後世に有名な本多正信と家康の影武者になる二郎三郎。その二人が若い頃、一向一揆に参加していた時のお話です。
織田信長の家臣「柴田勝家」を追い出して、越前国を一揆の国にしたのもつかの間。本願寺から派遣された坊主と地元の一揆衆に亀裂が走ります。
本願寺から派遣された下間一族は、大名のように振る舞い、朝倉時代より重い年貢を取り立て。
・本願寺側の言い分:石山本願寺と信仰を守るために、現在の苦難に耐えるべき
・一揆側の言い分:もののふ(武士)からの解放が目的。自由のために戦う。
結局、この溝が埋まらずに内部分裂。その後の織田家の侵攻に、対抗しきれず、あっさりと敗北。
この結果を受けて、本多正信は、一揆衆の行動を批判します。指揮官に反抗しては戦に勝てない。勝利のために、なぜ、一時的な我慢ができないのかと。
おおきなお世話だと怒る二郎三郎
それに対して、二郎三郎は、「おおきなお世話だ」と激しい怒りを見せます。
おおきなお世話だ
いくさに負けようが、何千何万殺されようが、おおきにお世話だというんだ。
いくさの勝ち負けでことを判断するなっていってるんだよ。
一揆衆はもともといくさが商売じゃない。いくさが商売のもののふ(武士)が、手前勝手な理屈をつけて、一揆衆が自由に働けないようにしたからじゃないか。いくら仲間内だって、そのもののふのマネごとをして、人の自由を奪うようなことをすれば、見捨てられて当たり前。そのために、いくさに負けようが殺されようが、そりゃあ、一揆衆の勝手さ。根本の考え方の方は正しいんだ。大事なのはそっちの方だ。
本多正信の意見はこうです。
でも、いくさは勝たなきゃ話にならない
確かにそのとおりですよね。負ければ何にもならない。命だって失うかもしれない。戦に勝つことだけを考えれば正しいことです。
でもですよ、そもそも一揆衆は、何のために、戦っているのか。立ち上がったのか。自由のために立ち上がったのに、自由を失っては何もならないという信念。これが二郎三郎には理解できたのに、本多正信には理解できなかったのです。
そして、「おおきなお世話だ」という言葉。これはとても大事な言葉だと思います。たとえ、正しかろうとも、そんな事は判っているんだと。判っていて、なお許せないんだということです。
失敗しようが負けようが、人間、やらなければいけないことがあるはず。そして負けから学ぶこともあるはずです。
まあ、戦国時代の戦は負ければ命を失うこともありましたからね。本多正信の言うことも正しい。
さらに、勝つと分かった戦しかしないのか?と問う二郎三郎に。正信は、負けると判っていて戦うのは愚か者だけだと言い返します。
家康も負けて名を挙げた
お主の殿様(徳川家康)は、愚か者だなと。三方原で負けると判っていて戦ったじゃないかと。
確実に勝つ・成功すると判っていることだけに、チャレンジしても人望を得ることはできません。ときには、負けると判っていても信念に従うことがあってもいいのではないかと思います。
そして、意見を言う側・親・上司の立場からは、止めることだけが正しいとは限りません。「おおきなお世話だ」と言われないように、黙って見守ることも大事なことだと思います。