方臘の乱が教える「喫菜事魔(きっさいじま)」と「度人」の危険度

史実及び原典の水滸伝でも宗教反乱として、大きなエピソードになっている「方臘(ほうろう)」の乱」。この新興宗教の反乱を楊令伝は、生き生きと描いています。方臘を利用しようとした梁山泊の呉用は、方臘そして戦を共にする許定・石宝などとともに、全力で宋の童貫軍と闘うことになるほど、この乱にのめりこみます。

方臘は、民のちからを結集させるため、喫菜事魔という教えを利用。方臘自身はもちろん、親族・石宝など周囲にいる人物は、喫菜事魔の事など信じておらず、平気で生肉を喰らいます。喫菜=現代のベジタリアンのようなもので、野菜しか食べられないのですけどね。

「喫菜事魔(きっさいじま)」:野菜を食べて魔に仕えるという教義。

この方臘の乱が、大きくなったのは、宋王朝が、民の苦しみに目を向けず、芸術・重税で苦しませる方向に向かっていたから。その点、替天行道を志にする梁山泊と信仰をもって宋と戦う方臘の乱は、似たところがあると言えるでしょう。

『水滸伝』の中では、強敵として現れる「方臘(ほうろう)」――〈宗教的秘密結社「喫菜事魔(きっさいじま)」(マニ教系とする説もある)の指導者〉です。彼の起こした「方臘の乱」は、〈約100万の民衆が反乱に加わった〉(同「ニッポニカ」)という大規模なものでした。当時の北宋では重税のほかに、皇帝の趣味で、〈花石綱(かせきこう)(珍木奇石の徴発・運搬)など過酷な収奪が行われ〉(同前)、民衆は苦しんでいました。方臘は民を前に演説します。『中国民衆叛乱史2 宋~明中期』(谷川道雄・森正夫編)

しかし、方臘そして呉用は、(趙仁と名乗る)信徒に力を与え、失ったパワーを補うために、生肉を食べて女を抱きます。それによって、体力を回復するというところ。北方謙三先生ならではの描写。

呉用は、趙仁と名乗り、方臘と接する中、志と信仰の違いについて悩みます。水滸伝での呉用は、嫌なやつでした。しかし、楊令伝は、方臘の乱に参加することで、人間的に成長します。かつて、頭だけで考えていると言われた男が、実戦を経験し、方臘と接することで、人間の粒が大きくなり、頭領になりえるレベルにまで大きくなるのです。

教祖の方臘は、本心では、信徒のことなど考えていない

信徒などどうでもいいと思っているので、神がかりのようなことでも、何でも言える。苦しみ喘いでいる民に、わずかな救いを感じさせれば、それでいいのだ。

その底には、所詮、人間は愚かなのだという諦念のようなものがある。と呉用は思う。愚かだから戦をし、愚かだから負けてもいい。楊令伝第三巻

教祖の方臘自身は、信徒ではなく、それこそ、信徒の事さえ考えていません。だからこそ、神がかりのような事を平気で言います。

これ、マルチ的なお金儲けを目的とする新興宗教の教祖も同じ。現代社会において、自分自身を神だの預言者だのの語る・名乗ることができるのは、トンデモナイ話です。肥大した自尊心とナルシズムがないとそんな事を言えません。

そして、奇跡を起こす・難病を治すという事も、結果の責任を取らないがゆえに、言える無責任な言葉。「わずかでも救いを感じさせれば、それでいい」という言葉。苦しんでいる人にとっては、方臘の言葉だけで、喜んで死ぬ事ができる。度人を実践することができるのです。

方臘が命ずる度人とは?

度人という教義は、ホントに怖い。

この世に生まれてきたのが不幸なのだから、殺してやると功徳になるという馬鹿げた教義らしい。~馬鹿げた教義でもわかりやすい。実践もできる。どう馬鹿げていようと、宗教など信じてしまえば、それでいいという簡潔なものを持っている。

度人を行うことで、邪気を晴らし、この世を救うことができる。喫菜事魔は、別として、度人の教えはヤバい。

フィクションだからといったバカにできないのは、オウム真理教をはじめ教祖の命令にしたがって、同じような行動をした団体はたくさんあります。

はたから見たらおかしなこと。単なる殺人に過ぎないことも宗教や教祖が絡むと、崇高なる行い・使命になる。そのことを証明したのが、オウム真理教。

ポア: 「死ぬことによって、魂がより高い位置に到達できる」との意味で使われた言葉。教団内では殺害の指示に用いられていた。松本死刑囚は説法で「悪業を積んだ人の命を絶ち、高い世界に生まれ変わらせることは、凡夫が見れば殺人だが、ヴァジラヤーナの教えが背景にあれば立派なポアだ」と述べていた。ポア:オウム真理教

そう、宗教は、信じてしまえば、皆、仲間。様々な違いを乗り越えて、ただ、宗教さえ信じてしまえば、仲間と目的ができるのです。人種・人間性など実社会で生きるには、様々な問題がありますからね。宗教や信仰は、人々を強力に結びつけるツールになりえます。

すべての宗教が悪いわけではなく、ポアや度人など人々を反社会的な行為に誘導する・教祖絶対主義が危ない。

だからこそ、方臘の乱で度人と称して、罪なき人を殺し合うような教義を認めてはいけないのだと思います。

弓の名手。花栄の息子「花飛鱗」は、子午山で、相棒の張平と宗教について語ります。

度人を強制する宗教の教義と教祖の人格:花飛鱗の答え

千年近く前の、黄巾の乱のことを書物で読んだ。人は、理屈で癒やされるものではないらしい。~権力に刃向かって死ぬことが喜びになる、というようなことに、時として繋がってしまう。教祖の人格が問題なのではないだろうか。

世の中、理屈だけで解決できるものではない。宗教の何が問題なのか。その答えを花飛鱗は、教祖の人格が問題だと答えるのです。

世の中の宗教のすべてが反社会的ではありません。悪いのは、教祖の考え方。社会への怒りやコンプレックスをうちに抱いた教祖の教えは、反権力・反社会へと進みがち。そして、自分たちの教えが理解されないのは、自分達ではなく、社会がおかしいと考え出すと危ない。

教祖自身が、社会に怒りを抱いているわけですからね。教祖の分身である幹部や信者達も社会への怒りをいだき、社会や権力を憎む教えになってしまいます。そういった教えは、自身の平穏や心を穏やかにする効果よりも、「社会への怒りによる同調意識」の方が強くなってしまいます。

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